朝の支度を終えて、
玄関の鏡で
身だしなみを確認する。
黒いパンツには、
さっきまで
何度もコロコロをかけていた。
「よし、大丈夫。」
そう言って振り返ると、
君がいつもの場所で
こちらを見ている。
「行ってくるね。」
頭をひと撫ですると、
君は嬉しそうに
尻尾を振った。
駅へ向かう途中、
信号待ちで
ふと足元に目を落とした。
「あ……。」
黒いパンツに、
一本だけ
白い毛がついている。
あんなに
きれいにしたのに。
思わず苦笑いする。
君の毛は、
本当にどこにでも
ついてくる。
ソファにも。
お気に入りの毛布にも。
洗濯したばかりの服にも。
掃除をしても、
気がつけば
またどこかに落ちている。
「もう、しょうがないなあ。」
いつもそう言いながら、
私はコロコロを手に取る。
信号はまだ赤だった。
パンツについた毛を
指でつまもうとして、
今朝の君を思い出した。
玄関で
私を見上げていた顔。
「行ってくるね。」と言うと、
少し首を傾げて、
それから
尻尾を振ってくれたこと。
きっと今頃は、
いつもの場所で
丸くなって眠っているんだろう。
私が帰るまで、
あの家で
のんびり過ごしているんだろうな。
信号が青に変わる。
私は伸ばしかけた手を
そっと下ろした。
たった一本の
君の毛。
いつもなら、
見つけた途端に
取ってしまうのに。
今日は、
なんとなく
そのままにしておきたくなった。
駅のホームに着くと、
ちょうど電車が
入ってきた。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ通勤電車。
君は今頃、
お気に入りの場所で
眠っているだろうか。
それとも、
窓の外を
眺めているだろうか。
そんなことを考えながら、
足元に目を落とす。
黒いパンツに、
小さな白い毛が一本。
私は少し笑って、
そのまま電車に乗った。
家を出るとき、
「行ってくるね。」と
君に言った。
でも、
君は何も言わずに
こんな小さなものを
持たせてくれたんだね。
今日は、
帰ったら
いつもより少し長く
君を撫でてあげよう。