覚えているよ

 

ここがどこなのか、


ぼくには
よく分からない。


でも、
体はもう痛くない。


立ち上がるときに
足が震えることもないし、


走ろうと思えば
どこまでも走れる。


風の匂いを嗅いで、


草の上を走って、


疲れたら
そのまま眠る。


そんな毎日。


だけど、ときどき


ママのことを思い出す。


朝、
カーテンを開ける音。


「おはよう。」


まだ眠かったぼくの頭を
撫でてくれたこと。


ごはんを用意する音がすると、
待ちきれなくて


ママのあとをついて歩いたこと。


玄関でリードを見るだけで
嬉しくなって、


早く、早くって
ママを急かしたこと。


雨の日の散歩から帰ると、


「びしょびしょだね。」


そう言いながら
タオルで体を拭いてくれた。


ぼくはじっとしていなくて、


ママはいつも
困ったように笑っていた。


夜になると、
ママのそばで眠った。


ときどき背中に触れる


ママの手が好きだった。


何かをしてくれなくても、


ただ、
そこにママがいるだけで


安心して眠れた。


いつからだったかな。


散歩の途中で
立ち止まることが増えた。


前なら簡単に上れた段差も、
少し難しくなった。


ママはぼくの歩く速さに合わせて
ゆっくり歩いてくれた。


歩けなくなってからは、


抱っこしてもらうことが
増えた。


ぼくは、

ママの腕の中から見る景色も


けっこう好きだったよ。


そして、


最後の日。


ママはずっと
ぼくのそばにいた。


何度も名前を呼んで、
何度も頭を撫でてくれた。


その手が
少し震えていたことを


ぼくは覚えている。


「もっと何か
してあげられたかな。」


「ごめんね。」


ママは何度も
そう言っていた。


どうして謝るんだろう。


ぼくには
よく分からなかった。


だって、

ぼくが覚えているのは、


できなくなったことじゃない。


朝、
名前を呼んでもらったこと。


一緒に歩いた道。


ごはんを待っていた時間。


雨の日のタオル。


ママのそばで眠った夜。


そして、


何度もぼくに触れてくれた
あの手。


今日
草の上で眠っていたら、


どこかで
ママの声がしたような気がした。


ぼくは顔を上げる。


ママの姿はない。


それでも、


なんとなく嬉しくなって
尻尾を一度振った。


ねえ、ママ。


ぼくは、
ちゃんと覚えているよ。


ママと過ごした
たくさんの毎日を。


だから、
そんなに何度も


「ごめんね」って言わないで。


ぼくが覚えているのは、


ママといた時間だから。

 

覚えているよ
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