彼女は一人暮らしだった。
在宅で仕事をしているから、家にいる時間は長い。
静かな部屋でパソコンに向かい
気づけば一日が終わっている。
そんな毎日だった。
数か月前
保護施設から一匹の犬を迎えた。
茶色い雑種で
少し臆病そうな目をしていた。
家にはすぐ慣れたけれど
ひとつだけ不思議なことがあった。
その犬は
よく玄関の方を見ているのだ。
何かを待つように、
じっと。
仕事の合間にふと顔を上げると
いつも同じ方向を見つめている。
彼女は笑いながら言った。
「誰か来るの?」
でも、誰も来ない。
宅配でもなく
近所の人でもない。
それでも犬は
ときどき玄関を見ている。
ある日、
保護施設に用事があって立ち寄ったとき
彼女はその話をした。
すると、スタッフの人が
少し静かに答えた。
「あの子はね…
前の飼い主さんを、ずっと待っていた子なんです」
飼い主は事情があって
もう一緒に暮らせなくなった。
でも犬は
しばらく玄関の前で待ち続けていた。
「きっと、帰ってくると思っていたんでしょうね」
その話を聞いたとき
彼女の胸の奥が少しだけ痛んだ。
それから数日後。
仕事が終わった夕方
彼女はふと思いつく。
パソコンを閉じて立ち上がり
一度玄関の外に出た。
そして扉を開けて
部屋の中に向かって言った。
「ただいま」
すると犬は
ぱっと顔を上げて
しっぽを振った。
それは
今まで見たことのないくらい
嬉しそうな顔だった。
次の日も、
その次の日も。
彼女は仕事を終えると
一度玄関の外に出てから帰る。
「ただいま」
その声を聞くたび
犬は嬉しそうにしっぽを振る。
まるでずっと
その言葉を待っていたみたいに。
彼女は思う。
この子は
誰かの帰りを待っていた。
そしてきっと
今も待っている。
でも――
玄関を開けて
「ただいま」と言うとき。
自分も
同じ気持ちなのかもしれない。
静かな家に
帰ってくる足音。
待っているのは、
この子だけじゃない。