その家の玄関には
犬の置物があった。
初めて荷物を届けた日のことは
あまり覚えていない。
でも、
何度目かに訪れた頃には
その家へ向かうのが
少し楽しみになっていた。
インターホンを押すと
扉の向こうから聞こえてくる
軽い足音。
「こらこら、待って。」
そんな声と一緒に
玄関の扉が開くと
いつも君がいた。
僕の姿を見つけると
飼い主さんのそばから
嬉しそうに寄ってくる。
何度か会ううちに僕も君の頭を
そっと撫でるようになった。
「こんにちは。」
そう言って撫でると
もっと撫でてほしいのか
僕の手に鼻先を寄せてくる。
「すみません、この子、
配達員さんが好きみたいで。」
飼い主さんは
困ったように言いながらも
いつも嬉しそうに
その様子を見ていた。
ほんの数分。
荷物を渡して
「ありがとうございました」と
次の家へ向かう。
それだけのことだった。
それでも
あの家の荷物を見つけると、
今日は君に会えるかな。
そんなことを
思うようになっていた。
やがて
担当する配達地域が変わった。
新しい道を覚え
新しい家を回り
毎日たくさんの人に
荷物を届ける。
そんな日々を過ごすうちに
君のことも
あの家のことも
少しずつ
思い出さなくなっていった。
それから
何年か経って。
再び
あの地域を
担当することになった。
見覚えのある町並みを走っていると
荷物の住所に
懐かしい番地を見つけた。
「あ……。」
あの家だ。
荷物を持って
懐かしい玄関へ向かう。
そこには
あの頃と同じ
犬の置物があった。
インターホンを押す。
しばらくして
玄関の扉が開いた。
「お届け物です。」
あの頃と同じ
飼い主さんだった。
けれど、
あの軽い足音は
聞こえてこなかった。
僕のそばへ
嬉しそうに寄ってくる
君の姿もない。
静かな玄関だった。
荷物を渡しながら
一瞬、
聞こうかと思った。
『あの子は……。』
でも、
言葉にはしなかった。
あれから
もう何年も経っている。
「ありがとうございました。」
いつもの言葉を残して
玄関を離れる。
少し歩いてから
もう一度だけ振り返った。
犬の置物は
あの頃と同じ場所にいた。
僕でさえ
こんなに寂しいのだから。
毎日
あの扉を一緒に開けていた人は
きっと、
もっとずっと。
そう思うと
胸の奥が
少しだけ痛んだ。
それでも。
たまに荷物を届けていただけの僕にも
君との思い出が残っている。
あの玄関で
嬉しそうに寄ってきた君を
覚えている人が、
ここにも、
ひとりいる。
玄関の前で。